猫が賛助出演して気に入る

はてなブログを本格的に始めて約2か月が経つ(開設からはもっと経つ)。楽しかった経験を忘れないために。自分の好きなものごとを誰かに知ってもらうために。ぽつりぽつりと文書をつむいでいる。人さまの役には立たない。つかみどころがない。脈絡がない。ないないづくしの記事ばかりを書いている。

 

ただそんな文章でも気まぐれに読んでくれる人がいて、とてもありがたいことである。なかでも中央アジアの料理を題材にした記事は、思いがけずたくさんの人に読んでもらえることになった。

 

nadegata226.hatenadiary.jp

 

各種のSNSはてなブックマークに寄せられたコメントは、可能な限り目を通すようにしている。俺の大好きな中央アジアに興味を持ってくれたような意見も多くあり、非常に嬉しい思いであった。さてその中に一つ気になるものを見つけた。

 

 

 

 

 

「고양이가 찬조출연해서 맘에 든다」

 

 

 

ハングル。これは何と言っているのだろう。両国関係の難しいこのご時世である。まさかこんな毒にも薬にもならない記事に悪意のコメントとは考えにくいが、気にはなる。気になるし、正直に言ってその内容を知ることに少しだけ怖い気持ちもある。わざわざ日本語で書かれた記事に向けて、この人が言いたかったことは何なのだろう。意を決してGoogle翻訳にかける。

 

 

 

 

 

 

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猫が賛助出演して気に入る。

 

 

 

 

 

なにこのフレーズ、最高か。なんというか、シンプルな言葉の中にとてつもなく強烈なフックが利いている。「賛助出演」は、意味は推測できるもののあまり聞きなれない言葉だ。固くて事務的、形式的な雰囲気を感じる。なのに、賛助出演しているのは猫。ゆるい。流れをブチ切ってゆるすぎる。言葉の緩急である。全盛期の星野伸之スローカーブを見せられたかのごとく、俺のスイングは大きく空を切る。そして後半の「気に入る」。こなれた日本語なら、ここは間違いなく「気に入った」である。だが敢えての「気に入る」。この言葉遣いに、俺は強い肯定の意思を感じた。ただ単に私が気に入ったというのではない。この世の必然として。あるいは森羅万象の理として。猫が賛助出演していることは「気に入る」ものだと言い切っている。まるで神託のような、そんな力強い断定のニュアンスを感じ取った。

 

改めて、「猫が賛助出演して気に入る」。なんと情緒あるコメントであることか。恐ろしいまでに非凡な翻訳センス。まさに声に出して読みたい日本語。

 

できることなら。俺はこのフレーズが世の中に根づいてほしいと思っている。俺が思うに、日常生活において「猫が賛助出演して気に入る」としか表現しえない事柄は、たまに存在すると思うのだ。

 

例えば俺の家から最寄りのスーパーまでは50mである。近いし遅くまで営業しているので、大いに頼りにしている。ただ俺はたまに150m離れたコンビニまで行く。理由は、こっちの駐車場にはたまに猫がたむろしているからだ。値段は高いし品揃えもスーパーに劣るが、猫がいるかもしれないからコンビニに行くのだ。このような状況をどう表現するべきか。「俺は猫が好きだからコンビニに行く」。もちろん情報としては正しい。ただグッとこない。わざわざ経済原理に沿わない行動をとる、心の機微が感じ取れない。そこで「コンビニに猫が賛助出演して気に入る」である。ほら、情緒が爆発している。エモーションがスパークしている。ネコ好きの皆様におかれましてはぜひ、的確な状況を見つけたらこのフレーズを使ってもらいたい。

 

結びに。この記事でも、中央アジアで出会った猫が賛助出演する。気に入る。

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