東海林さだおにいざなう罠と、16時間絶食男

デイリーポータルZで記事を書きました。

dailyportalz.jp

 

そういえば東海林さだおさんとの出会いは、割とはっきりおぼえていて、ロシア語通訳者 米原万里さんのエッセイの中に出てきたのだった。

 

「モスクワへ向かう機中で読んでいたのだが 、わたしがあまりにもしばしば座席でのたうち回って笑い転げるものだから 、隣席のロシア人のおっさんの好奇心がどんどん膨張していくらしくて 、少しずつこちらに身を乗り出してくるのがわかる 。」

—『旅行者の朝食 (文春文庫)』米原 万里著

 

この一文を読んだおれもやはり、ロシア人のおっさん同様に好奇心がどんどん膨張し、すぐさま『トンカツの丸かじり』を購入した。電子書籍なので購入日も記録されている。2017年1月30日。これがおれと東海林さだおさんとのファーストコンタクト。さだお記念日。なお翌31日にはすぐさま『キャベツの丸かじり』に手を出している。

 

ここからは坂道を転げ落ちるようにハマってゆき、3年後には40冊の丸かじりが本棚からはみ出し枕元に積み上げられているのだった。しかも最近は丸かじり以外のさだお本にも手を出し始めている。ドラッグ撲滅のポスターではないが、まさに「軽い気持ちで手を出したせいで…」というやつであった。おれは米原万里さんの仕掛けた罠に見事にかかったのだ。

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今回の記事に寄せられたありがたいコメントを読んでいると、こうした「東海林さだおにいざなう罠」はいたるところに張り巡らされているのだなと実感した。ある人は小学校の図書室で勧められ、ある人は親の本棚から拝借して。おれのように著名人がファンを公言していたからというのもあるし、有名ブロガーやライターが推薦していたという声もあった。

 

そしておれもまた、このたびネットの海に新たな罠を一つ仕掛けたということになる。作品を楽しむだけでなく、人に語らないと気が済まないのが東海林さだお作品の魅力。おれが仕掛けたこの罠に誰かがはまって、さらに新しい罠を再生産してもらえればこれほど嬉しいことはない。

 

 

 

 

 

突如話はかわって、うなぎである。

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何かというと、本編記事の冒頭で引用した「ドックあがりのトンカツ」。1500編の丸かじり作品のなかでマイベストがこのお話なのだけど、つい昨日、奇しくも東海林さだおさんと同じ、16時間絶食明けの昼下がりを経験する事態にいたった。

 

あと1時間でメシが食えるぞ、そういうタイミングで頭の中にぐるぐる食べ物が駆け巡り、運命的にぴたりと止まったメニュー。おれの場合、それがうなぎであった。

 

食事の30分前。うなぎと決めた以上、もう一つの悩みどころは等級である。グレードである。松竹梅である。低血糖の頭でうなぎ屋についてから考えるのでは、気が急いて適正な判断ができない。あらかじめ決断しておいて、席につくなり注文するのがスマートだと考えた。

 

久しぶりのうなぎだからな。松か竹か。胃の方面からは、最近は小食気味だし竹くらいでどうかと伺いを立ててくるが、脳みそは16時間の絶食をタテにして最上位の注文を猛プッシュしてくる。

 

目当ての店に歩きながら考える。OK、ではこうしよう。等級ありきではなく、予算制だ。松が3000円を超えるようなら竹でいく。シンプルにして明快、最適な決定方法だ。鼻息荒く店の引き戸をがらがらと開ける。

 

果たして、店のメニューはこのようなものであった。

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2850円…!「菊」に決定の瞬間だった。予算スレスレ、しかも特上の一言がわざわざ添えられている。「梅」との価格差750円にぐっと期待がかかる。一般的な松竹梅とは違い、菊が最上位というのは予想外だった。

 

しかし注文は決まったのに、おじいさんの店主はなかなかやってこない。ワンオペなのだ。お年寄りのワンオペに無理をいってはいけない。おじいさんは焼き場で先客のうなぎにかかり切りだ。その背中をみて、焦りが募る。胸にそわそわが去来する。もやもやが去来する。もうやめてくれ。胸中は黒い磁気テープを滅茶苦茶に引っ張り出したみたいに、ぐじゃぐじゃになる。

 

ふと、ぐじゃぐじゃの奥のほうから、何か穏やかに訴えかけるような声が聞こえたような気がした。ゆったりとした足取りで漸くやってきたおじいさんに告げる。「うなぎの梅と…あとビールをください」。

 

おじいさんはこちらをちらりとみて言う。

「大と小があるけど」

「大でお願いします」

 

予算3000円で最高のランチが決まった瞬間であった。あのぐじゃぐじゃの向こう側から「ビールはいいのかい?」という天啓を送ってくれたのは東海林さだおさんだっただろうか。

 

 

 

トンカツの丸かじり

トンカツの丸かじり